無外流居合兵道は、無外流剣術の祖である辻月丹資茂の流れを組んでいます。
 1649年(慶安2年)に近江国甲賀郡馬杉村に生まれた辻月丹(幼名:兵内)は、13歳で京都の山口流剣術の山口ト眞斎に師事、26歳で免許皆伝を授与され越後路を武者修行した後、江戸糀町に山口流道場を開設します。
 
 月丹は道場で門人を集め稽古をすると同時に、1680年(延宝8年)より吸江寺の石潭和尚の元で参禅しますが、途中石潭和尚は死去したため石潭和尚の次代である神州禅師のもとで禅を続け、1693年(元禄6年)45歳の時に悟りを開き、神州禅師より「一法無外 乾坤得一貞 吹毛方納密 動着則光清」と偈を授与され、これにより号を「無外」として無外流をひらき、大名などを含む多くの門人をもちます。月丹の門人には、小笠原佐渡守長重や後の姫路藩主酒井勘解由忠拳、土佐藩主山内豊昌などがいました。
 月丹は1727年(享保12年)に79歳で死去しますが、月丹には子供がおらず、門人の辻右平太を無外流2代目とするとともに、都治(つじ)記摩多資英を養子として迎えました。
 辻右平太は1734年(享保19年)前橋藩藩主の酒井忠拳のもとで剣術指南役となりましたが、1749年(寛延2年)に酒井家は姫路に移封され無外流は姫路藩へと移りました。
※伊勢崎藩にある酒井家の分家に無外流は存続しますが、後に長沼系直心影流と共に伝承されていきます。

 姫路藩に移った無外流は自鏡流と出会います。無外流6代目高橋八助充亮は自鏡流5代目山村司昌茂より自鏡流を伝承し、無外流と自鏡流は併伝される事となります。
 1858年(安政4年)には無外流9代目高橋哲夫武成と久留米藩士で津田一伝流の津田一左衛門正之と試合を行い惨敗。藩命により高橋哲夫は久留米へと赴き津田一伝流を学んだ後、姫路藩に津田一伝流を伝える事となり、後の無外流10代目高橋赳太郎もまた、無外流と津田一伝流を学びました。

 高橋赳太郎は18歳で無外流・津田一伝流の免許を授与されますが、同年に師である高橋哲夫が死去したため、祖父であり無外流8代目である高橋八助成行に師事し、その2年後に奥伝を伝授され全国へ修行の旅へと出ました。
 道中立ち寄った大阪では無外流土方派の川崎善三郎と試合をし、両者拮抗した力量のため壮絶な試合となり、互いに失神するまで戦い続けたとされています。また、1887年(明治20年)に高橋赳太郎は上京し、警視庁の試験に合格。同時期に川崎善三郎と高野佐三郎が警視庁に入り、後に三郎三傑と称される事となります。

 1889年(明治22年)には高橋赳太郎は兵庫へと戻り、当時学生であった中川申一(後の無外流11代)と出会い、中川申一は高橋赳太郎に師事。その6年後に高橋赳太郎は知進館を開設し、剣術と柔術を門人に教える事となります。また、高橋赳太郎には子がなかったため親交のある田浦家より養女を迎え、その子供である高橋秀三に剣術を教えました。
 高橋赳太郎は1940年に81歳で死去しますが、高橋赳太郎に師事していた無外流11代目中川士龍申一は、刃引之形5本と無外流居合7本を受け継ぎました。
 中川士龍申一は、高橋赳太郎の死去後に剣術、居合を編さんして現在の無外流居合兵道を作り上げました。そのため、中川士龍申一は無外流の中興と言われています。
 中川士龍申一は無双直伝英信流20代河野百錬の高弟であった石井悟月善蔵を12代に任命しますが、その直後に石井悟月善蔵は全日本剣道連盟へと移籍したため関係が途切れ、中川士龍申一は6人に免許皆伝を与え、無外流を存続させる事としました。昭和50年には中谷臣志、昭和51年に白井亮太郎と戸田誠寿、昭和52年に岡本義春、昭和54年には長澤正夫と小西御佐一にそれぞれ授与されます。

 中川士龍申一は後継者を中谷臣志と考えた時期がありましたが実現せず、1981年(昭和56年)に86歳で死去しました。
※誠に失礼ながら、敬称略とさせていただきました。

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 当協会に加盟している無外流居合兵道正傳會信濃無外会(以下、正傳會信濃無外会)は、小西御佐一天龍に師事し免許皆伝を授与された古畑公幸嶽龍らが発足させ、中川士龍申一の研究を重ねて日々稽古をしております。
※誠に失礼ながら、敬称略とさせていただきました。

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 抜きつけからの切り上げ(袈裟がけ)と突きが多く、より実践的な居合といえます。


 
 

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【ご覧の皆様へのお願い】
 大変お世話になっております先生方、先輩方、同門の皆様のお名前を表記せず、
 非常に簡略化した系譜図とさせていただいております。
 また、失礼かとは存じますが敬称略とさせていただきます。あらかじめご了承ください。

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